久しぶりに少し、落ち込んでいる。お気に入りのピアスを片方、落としてしまったからだ。これが一人で行動している昼間なら、諦めがつくまで探しに戻るが、生憎、紛失に気付いたのは夜。それも編集者の方々に丸一日取材にご同行いただいた末、お疲れさまと入ったであった。
ようやく一息ついてらっしゃる編集者さんたちに、【41】。動揺を押し殺してさりげなく周りを見回し、やっぱりない、と片耳に触れるのが精いっぱい。朝からほうぼう歩き回った後のため、探しに行くのはどう考えても不可能で、そのまますごすごと家に引き上げた。
親しいお店で作っていただいたピアスなので、片方だけ発注する(注1)のは難しくない。【42】自分でも珍しいほど落ち込んだのは、それが三、四年ぶりの落とし物だったからだ。
ピアスホールを開けて間がない二十代の頃は、着用に慣れていなかったため、二、三か月に一度は必ずピアスを落とした。三十代からは徐々にそれが間遠になり、この数年はとんと失敗をしていない。
最初から自分の迂闊さを【43】、何を落とそうともがっかりはしない。もはやそんなことはあるまいと高を括っていた(注2)だけに、傲慢な自分がなおさら情けなくなる。顧みれば逆上がりも九九も苦手だった子供の頃は、「できないこと」をたくさん抱えているのが当然で、どんなミスをしても平気だった。大人になればなるほど、失敗が怖く、人の眼が気になってきたのは、知らず知らずのうちに自分が「できる」人間と考えるに至ったからかもしれない。
だがそもそも、年を重ねたから失敗をしないというのは、幻想だ。ピアス【44】、最近たまたま落とさない日々が続いていただけで、明日からは毎日紛失を重ねるかもしれない。いや、自分のうっかり工合(注3)を考えれば、むしろその方が自然だと自分に言い聞かせながら、私はまだピアスの消えた片耳を撫で続けている。
どんな社会にも、「情報通」と呼ばれる人がいます。
「物知り(注)」とは違います。多くの場合は、「情報に通じた人」つまり、どこにいけば情報があるのかを知っている人を指します。
どんなに知識の豊かな人でも、知っている分野や程度にはかぎりがあります。けれども、ある分野については、人並み以上によく知っている人は少なくありません。
「この問題については、○○さんが詳しい」
「この問題なら、○○さんに聞けばわかる」
そうした引き出しを、人並み以上にもっている人が「情報通」なのです。
(注) 物知り: 物事を広くよく知っている人。
人間の感覚がいかにあてにならないものかを示す有名な実験があります。
まず、三つの容器に冷たい水とぬるま湯、それに熱いお湯を用意します。はじめに右手を冷たい水に、左手を熱いお湯に、同時につけます。しばらくつけたら、今度は両手を同時にぬるま湯につけてみます。
すると、冷たい水に慣れた右手は温かいと感じ、熱いお湯に慣れた左手は同じぬるま湯を冷たいと感じるでしょう。人間の感覚は同じ身体の一部でさえも、ちがう意味を受け取ってしまうのです。
自動車が自動的に運転されることになれば、それは完全に単なる移動手段となり、運転することの娯楽性は存在しなくなる。人間が自分で自動車を運転する楽しさというものは、安全や利便性(注1)とのトレードオフ(注2)として、なくなってしかるべきものなのだろうか。人間を害するリスクのある非合理な娯楽性は、自動運転車とともになくなってしまえばいいと割り切ってしまう前に、安全性と娯楽性が両立する解はあると信じたい。
翻訳という作業は音楽の演奏に似ている。作家は作曲家に、翻訳家は演奏家に、それぞれたとえることができるのではないか。前から、ひそかにそう考えていた。
新しい世界観を提示するために構成を練り、一つ一つの言葉や音を吟味して組み立てていく作家=作曲家。
かたや(注)作者に寄りそうようにして意を汲み、原作や楽譜を丹念にたどってその世界を再現してみせる翻訳家=演奏家。楽譜をもとにしていても、演奏家によって、生み出される曲の印象がまるで違うことがあるように、小説や詩も、翻訳家の個性や解釈によって、何種類もの異なる翻訳が存在することがありうる。
(注)かたや: 一方
育児と言えば、たいていは母親によってなされると思われています。(中略) ところがライオンはちょっと違います。同じ群れのライオンは、そろって出産する傾向があり、育児も群れの雌全員が協力して行うのです。赤ちゃんは生まれて一か月あまりは物陰に隠され、母親だけで育てられます。しかし、歩けるようになると、群れに連れてこられて共同生活が始まります。
ライオンの群れには複数の大人の雌がいますから、それらの子どもたちが集まって、大所帯となります。集められた子どもたちは、自分の母親以外のライオンの乳も飲むことができ、群れの全員の保護を受けることができます。捕食獣(注1)であるライオンは、子育て中も獲物狩りに出かけなければなりません。母親一頭で子育てをしている場合には、外出中に、ハイエナ(注2)などに子どもが捕食される危険があります。しかし、共同育児をして誰かが子どものそばに残っていれば安心です。
若い雌ライオンは敏捷(注3)ですが、子育ての経験に乏しく、失敗することもよくあります。それに比べ、壮年期になったライオンは経験豊富で態度もどっしりとして子育ても上手です。年長の雌がまとめて面倒を見た方が育児はうまくいくかもしれません。反面、若いライオンの敏捷性は狩りでは有利に働くでしょう。ライオンは狩りも共同で行い、獲物はみんなで食べますから、年老いて狩りに参加できなくても、食事をとることができるのです。
ライオンたちは、明確な分業とまではいえなくても、うまく育児と狩りを全員が協力することで、問題を解決しています。
仕事柄(注1)、私は取材を受けることが多いが、あるとき取材をしている人から、話すのが苦手だと打ち明けられたことがある。取材中は自然な感じで会話が進んでいたこともあって少し驚いたが、そう言われてみるとたしかに少し緊張しているように見えなくもない。ただ、取材を受けている私の立場からすると、必ずしも悪い印象は受けなかった。
むしろ緊張感が相手に対する配慮のように感じられて、良い感じで話をすることができた。私たちは、あることが苦手だと思うと、うまくできていないように思える面に目を向けてしまう。スムーズに言葉が出てこなかったことや、話が行きつ戻りつしてしまったことなどが気になって、自分を責める気持ちになる。
しかし、スムーズに言葉が出なかったことで、会話にため(注2)が出てきていることもある。相手は、その時間的すきまの時に、考えをまとめたり、振り返りをしたりできたりする。トントン拍子に(注3)会話が進まないことで、話している内容を多面的に考えることができたりもする。
思うように会話できないときは、失敗ではなく、話を深めるように無意識に心が手助けしているようにも思える。(中略) 失敗のように思えることには、それなりに意味があるのだろう。
欠点のように思えることも、見方を変えるとじつは長所だということが少なくない。自分に対して多面的な見方ができると、気持ちが楽になるし、本来の力を発揮できるようになる。
大量生産品のように全国に流通し、多くの方々にご利用いただく商品の場合には、必ずマーケティング調査(注1)が行われます。とくにパッケージのリニューアル時には、従来よりも売り上げを落ちてしまっては大変なので、より慎重に行われます。
ただそういう場合、必ず「今までの方が良かった」という意見が過半を占めます。ですがメーカーにとっては、定番となっている商品をどうしてもリニューアル(注2)しなければならないタイミングが必ずやってきます。それは、競合他社が売り上げを伸ばしたり、技術開発に伴い商品そのものが改善されたり、いろいろな理由でそれは必ずやってくる。ところがマーケティング調査してみると「変えない方がいい」という結果が出てしまう。今までのファンはその商品に愛着をもっているわけですから、リニューアルに大賛成してくれるわけがないのです。ですが、どうしても新しくしなければならない。
私はこういった時、これまでの財産をうまく生かして、今までのファンがある程度を許容してくれれば、それは大成功だと考えています。最初は少し許せない部分があったとしても、これが一年、二年経つと、新しいデザインも見慣れてくる。したがってマーケティング調査の数字は、そういう時間軸も考えたうえで見る必要があります。
群馬県の上野村で暮らすようになって覚えたもののひとつに「待つ」という感覚がある。
たとえばこの村の農業は春を待たなければはじまらない。山菜も、茸も、それが出てくる時期を待たなければけっして手には入らない。木材として利用するのなら、木を切るのは、森の木々が活動を低下させる秋から冬がくるのを待つ必要がある。実に多くのことが、村では「待つ」ことからはじまっていく。
それが、自然とともに働き、暮らすということなのであろう。自然の力を借りようとすれば、自然がつくる、それに適したときがくるのを待たなければならない。といってもそれは、のんびりした暮らし方とばかりもいえないのである。なぜなら、ときを待つ以上、逆にそのときを逃してしまったらうまくいかなくなる。田植えのとき、草取りのとき、稲刈りのとき・・・。村の暮らしには、逃がしてはいけないときがたえずやってくる。
ときを待つ暮らしにとっては、人間の意志は万能ではない。それよりも自然という他者の動きの方が重要で、人間の意志は、自然の動きをうまく活用する範囲内でしか有効ではない。だから、自然と結ばれ、ときを待ちながら働き暮らしてきた村の人たちは、人間関係のなかでも同じような感覚を育んだ。人間関係においても自分の一方的な意志は万能ではない。人々の動きを理解しながら、ちょうどよいタイミングがくるのを待って、そのときを逃さずに働きかけていく。それが村の人たちの人間関係のつくり方だった。自然との関係のなかで学んだことが人間同士の関係のなかでもいかされていたのである。
(内山節『戦争という仕事』による)
教育を仕事にしていると、面白いことがたくさんある。その中の一つに、「未熟さの効用」とでも言うべき現象がある。知識や教育技術がたとえ未熟であったとしても、不思議と初めて受け持った授業が生徒との間に一番濃い縁を結ぶことがよくある。
通常の仕事は、経験を積み、技術が上がるほど、質が良くなる。教育の世界でも、もちろん経験知は有効に働く。ベテランの安定感は、たしかに大切だ。しかし、教育の場合は、若く未熟であることがむしろプラスに働くケースがよくあるのも事実だ。初年度に受け持った学生たちのことが鮮明に記憶に残り、その後のつき合いも深い、という経験が私にもある。
これはどういうことだろうか。まず考えられるのは、初年度の緊張感が、学生たちに新鮮な印象を与えたということだ。慣れてくると手際が良くなる。すると、学生たちは、安心する一方で油断が出る。レストランで手際のいいコックに料理を出してもらうような気分で、授業を受け始めてしまうのだ。授業を上手にサービスする側と、サービスされる側に、立場がはっきり分かれてしまう。先生はいかにも先生らしく、生徒はいかにも生徒らしい。
こうした関係は、安定はしているが、ときに新鮮さに欠ける。これに対して、初年度の教師が持つ緊張感は、生徒にも伝染する。その緊張感の共有が、一つの同じ場を作り上げているのだという意識を生みだす。参加し作り上げる感覚が、生徒の方にも生まれる。それが思い出の濃さにもつながる。
ここで初年度というのは、教師になって初めての年度というだけではない。学校を替わって、教師が新たな気持ちで臨むときも新鮮さが出る。あるいは新しい教科を担当し、一生懸命勉強して多少の不安を持ちながらも勢いをつけて切り抜けていくときにも、印象深い授業ができやすい。ただ単に未熟であることがいいわけではもちろんない。自分が未熟であることを自覚し、その分精一杯準備し、情熱を持って語りかけるときに、未熟さがプラスに転じるのだ。
教育において「新鮮さ」は決定的な重要性を持っている。いわゆる「教師臭さ」は、学ぶ側の構えを鈍くさせてしまう。型どおりの教え方が染みついてしまっている、という印象を与えてしまうだけで大きなマイナスになるのだ。「決まり切った感じ」を印象として与えないようにすることが大切である。経験知を重ねる良さを残したまま、新鮮さを失わない。これは、もはや一つの技である。「先生も自分たちと一緒に変化してくれるのだ」という意識が学ぶ側に生まれると、場を一緒に盛り上げる機運が高まる。
「指示されないと自分から動かない」「指示されたことしかやらない」、いわゆる指示待ちになっているといわれる部下や後輩がいる。指示待ちになるのは、仕事に関する知識や経験が不足していたり仕事に対してやる気がなかったりすることなどが原因だといわれている。しかし実は、そもそも上司からの指示に従うことが自分の役目だと考え、それ以上のことをする必要性を感じていないという場合が多いのだ。
そのような部下には、何のためにこの仕事を行い、業務全体の中でほかの仕事とどうかかわっているのかを教えることが重要だ。仕事の全体像がイメージできれば、部下は次にやるべきことや工夫できそうな点が分かってくる。その結果、自分に求められていることに気づき、自主的に行動できるようになっていくだろう。
部下や後輩が指示待ちであるのを簡単に部下自身の責任と決めつけるのは、問題があります。指示待ちになっている理由が何かあるのかもしれません。
まず部下自身が自主的に動くことの重要性を認識していないケースがあります。「言われた通りにするのが部下の仕事だ」と思いこんでいて、むしろ「どうしましょう」と相談することこそが部下の務めだと信じているケースです。この場合は、どんな仕事もすべてマニュアルで示すことはできず、個人の判断や工夫がいることを伝えることからはじめる必要があります。
(中略)
「これはどうしましょうか」と相談された時は、部下自身にその対応策を考えられるかどうか見極めて、「一度、自分なりの案を考えてみて」と要求してみるのです。上司がいつもそのように振る舞えば、部下は上司の思いにそって、「提案型の相談」をするようになってきます。
最近、日本ではテレビや書籍で脳科学者がブームになりました。脳科学が一般の人々の関心を強く惹いた最大の理由は、脳科学によって自分がよりよい人生を歩めそうだと感じるからではないでしょうか。
科学は事物を客観的に扱う三人称的な学問です。そのため、何か冷たく、自分とは関係のないようなよそよそしさ(注1)を感じてしまいます。ところが、脳科学は人間の感情や思考や行動に関わる科学です。そのため、科学としては初めてのことですが、まるで文学や芸術のように一人称(注2)世界に踏み込んできて、幸せな人生のノウハウを提供してくれているように思えるのです。
しかし、せっかく関心を持っている人に水を差す(注3)つもりはないのですが、脳科学が今よりずっと進歩したとしても、人間の心や私たちの人生について、すみずみまで解き明かせるようになるわけではないと肝に銘じて(注4)おいた方がよいと思います。脳は複雑で、まだまだわからないことが多く、普遍的な法則に到達するまでの道のりはきわめて遠いのです。そして、たとえ到達できたとしても、科学の普遍法則は人生の個別性や一回性(注5)に対しては全く無力です。ゆえに、人生の個別の事柄に適用して何かを予言したりすることは、おそらく不可能でしょう。
もう一つ大切なのは、科学は事実を扱うことはできますが、価値観の問題を扱うことはできないということです。ですから、脳科学によってある事実が判明したとしても、それを価値観と混同してはいけません。たとえば、ある脳科学の本に、「こうすれば脳を活性化できるので、みなさんもやってみましょう」と書いてあったとします。ですが、脳の活性化は絶対的な価値でしょうか。極端な例で考えてみましょう。副作用の全くない薬物だったとしても、薬物で健康な人間(たとえば受験生)の脳を活性化することは許されるでしょうか。これが許されるかどうかは、論理や価値観に属する話です。価値観は個人と社会が決めるものです。そして、個人の価値と社会の価値も同じとは限りません。脳科学の知見(注6)は事実を記述したものであって、価値とは何の関係もないのです。
(中略)
人類がどのような未来を選ぶかという問題も、結局のところ価値観の問題です。科学は、選んだ未来を実現するための道具にはあり得ますが、未来を選ぶ価値観の問題を扱うことはできません。
緑川大学では、国内各地でボランティア活動に参加する学生に対して、費用の一部を助成する制度を設けています。
1. 助成対象者
緑川大学の学部生と大学院生
2. 助成対象となる活動
公的団体が主催するボランティア活動
3. 助成対象となる費用、助成が受けられる金額と回数
(1) 費用 ボランティア活動のために支出される交通費と宿泊費
(2) 金額
・交通費: 1回の活動につき、10,000円を上限として支給します。
・宿泊費: 1回の活動につき、1泊あたり6,000円を上限として実費を支給します。2泊分までを支給対象とします。
(3) 回数 年度中2回まで
4. 申請方法(A〜Cの書類の様式はホームページからダウンロード可)
活動終了後2か月以内に以下の書類をボランティアセンターに提出してください。
ただし、年度内最終提出期限は3月24日(厳守)とします。
A: ボランティア活動助成金申請書
B: ボランティア活動助成金振込口座届
C: ボランティア活動証明書(受け入れ先の様式も可)
D: 領収書※
※宿泊費の領収書は必ず提出してください。交通費の領収書は入手が可能な場合は提出してください。交通費の領収書が入手できない場合は、実際にかかった金額をAに記入してください。
5. 助成金振込
審査を行い、申請が認められた場合は、書類提出があった翌月の月末に振り込みます(書類に不備があった場合、振り込みが遅れる場合があります)。
6. その他
「A: ボランティア活動助成金申請書」の「活動に参加した感想」をボランティアセンターのホームページで紹介することがあります。
7. 問い合わせ先
緑川大学ボランティアセンター(3号館1階)
月〜金曜日 9:00〜17:00
電話: 083-747-8688